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GWも明けあっという間に職場に戻ってまいりました。でも今はそこまで忙しくないのでとりあえずはOKです。
GW中に読んだ陸奥宗光に関する本の著者のシリーズ、「外交官とその時代」の第二弾である「小村寿太郎とその時代」をまさに時間を惜しむ感じで読み終えました。今まで興味はあったけれどなかなかその「重さ」に手の出なかった維新後から大戦までの外交史であります。 この第二弾も陸奥宗光の編にも増してすばらしいかったです。この本は維新後、陸奥が外相として外交官として一番の活躍を見せる清戦争の前後から明治の最後まで、つまり日露戦争の終わりまでの巻です。強引過ぎるかもしれませんが、ここまでの日本の歴史の流れを維新からのアクターの視点でいうと: 1.関が原の戦いによって幕府側と非幕府に分かれ、非幕府の二大雄藩が中国地方の毛利氏下の長州藩、そして島津氏下の薩摩藩であり、この二つの藩は常に江戸幕府の脅威で有り続け、そして彼らも幕府に対する反抗心がどこよりも強かった。巧みな外交手腕で関が原の敗戦後も領地を全く減らされなかった薩摩は、常に幕府に単独に対抗しうる軍力を潜在的に持ちえた。領地の接収がつとに激しかった長州はその代わりに当時の日本の藩の中で一番の貿易藩としてその富と力を蓄えていた。 そして外様大名として掛川から来た山内氏下の土佐藩。ここは外様大名とそれに仕える侍達とそれより下級の武士、農民達の耐えがたいほどの階級社会が出来上がっていき、土佐の大部分の人々は幕府に対する反抗心を常に忘れずに来ていた。そして土佐からの維新を担う人材は圧倒的に坂本竜馬をその代表格とする郷士という下級武士たち、つまり幕府に恩など微塵も感じていない階級の、一番幕府への怨念が募っている階級の人々であった。(ちなみに板垣退助は郷士よりもランクが一つ上の上士という、かろうじて土佐城に出入りが限定的に許された階級の出身。) 2.薩長土肥という形で維新があったが、実際に新政府が始まってみると実に薩長の完全なる独裁政府が出来上がっていた。土佐系でさことごとく政府の要職にはつけず、「関が原の仇討ち」という概念まで新政府が出来上がった頃の薩長の元老達が口にしたこともあった。その藩閥政治から外された維新の大きな原動力の一つを担った土佐系の人々はこの藩閥政治への対抗勢力として自由民権運動に流れていく。板垣退助、中江兆民などである。つまりこの運動は薩長のみで占められている政府、そして政治というものを薩長以外の他藩(つまりは土佐系も含む)にも門戸を広げなければならない、という運動であった。これが明治中期における議会開設へとつながっていく。 3.板垣下の自由党における政治運動は始めは実を結ばず、事あるごとに薩長政府の弾圧にあったが、全国の民衆レベルに根を張った彼らの運動は次第に実を結び、維新後から芽生えてきた国民の政治への関心の高まりを背景として、この自由党の影響力はますます強まった。当時はまた内閣の閣僚は天皇任命という、議会を超越した存在であったが、もう明治の中期以降になるとこのような大きな国民の声を無視することはできず、いわゆる政党政治に進んでいかない道はない、という流れになる。 4.板垣・大隈内閣という、歴史的な自由党系(つまり土佐系)と政府(つまり薩長)との連立内閣はその意味で非常に大きな歴史的出来事となった。そしてますます政党政治、つまり非薩長独占政治への道は開いたかに思われた。特に薩長の元老の中でも伊藤博文はそのような流れの可能性にいち早く気付き、積極的に融合方針を唱えていた。しかしながら、せっかく幕府から奪い返した権力をどうして薩長以外に与える必要があるのか、と強く思う保守派の元老が山県有朋であり、時まさしく政党政治が日の目を見ようというときに、当時首相であった山県が、陸海軍の大臣は現役の軍人でなければいけない、という法律を通す。これはつまり内閣の閣僚をきめるときには軍から大臣の任命がなければ組閣ができないということを示し、薩長の保守的慣性がこのような形で実を結ぶ。そしてこのことが大日本帝国の大戦に至るまでの軍部の暴走の温床になっていく。 ざっとこんなもんでしょうか。長々と書きましたが、ここで私が言いたかったことは、江戸末期から大戦までの歴史を上記のような視点でみると、バカみたいに単純化してますが、それなりに大きな流れというのが見えてくるのではないか、ということです。僕が興味があるのは、なぜ日本が、どのような判断ミスを、どんな状況で犯して大戦の敗戦に至ったのか、ということです。政府がどのような姿勢・態度をもって対応していったのか、そしてその理由は?という疑問です。この疑問を戦後のバイアスのかかった目で見るのではなしに、その当時の背景・状況から見た日本の意思決定の過程の質、この命題にしっかりと取り組んでいるのがこの岡崎久彦氏の「外交官とその時代」の一連の著作であるように思います。今三巻目の到着を待っているところですので、大正時代からの知識はゼロですが、上記のことに視点を置いてこのシリーズを読みきっていこうと思います。 この小村寿太郎を読んでいる頃くらいから、大国と呼ばれる国がいかにして外交競争を生き抜いて繁栄、そして衰退していったのかということに興味がわき読んだのがこの中西氏の「大英帝国衰亡史」であります。でも感想をいうと非常に読みにくかったです。どうもいろいろとその当時のエピソードなどをちりばめようとするが故に一体著者のポイントがなんなのかがわからず、正直稚拙なイメージを持ちました。どのようなエピソードがあっても「だから大英帝国は衰退していったのだ」という自分の仮定を正当化する短い証明のみでその判断がどのような分析を経て可能になるのか、ということが全く抜かされている印象を受けました。これは上記の岡崎氏の作品からはまったく質が劣り、現代の価値もしくは意見という、“すでに出来上がった結論を土台にして”大英帝国の衰退を見るという間違いを犯しているように思わざるを得ませんでした。
by takaakinet
| 2005-05-10 00:00
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